フジテレビ「ムッシュかまやつ伝説」が凄かった
日曜日の深夜、フジテレビで放映された「ムッシュかまやつ伝説」は
レアな映像満載であらためてムッシュの偉大な功績を再確認できる
貴重なドキュメンタリー音楽番組でした。
ナビゲーターはムッシュに大きな影響を受けたというユーミン。
ナレーションは従兄弟の森山良子が担当。
まずはムッシュの生い立ちから番組ははじまる。
父はロス出身の日系二世、ジャズギター奏者&ジャズ歌手のティーブ釜萢。
70年代にはキングレコードに1枚アルバムを残しています。
Sing a Simple Melody
ティーブ釜萢さんの戦前〜戦後の活動を見ていくと、
戦後日本のポピュラー音楽史を知る上で面白い事実が多々ありますが
それはまた何かの機会に掘ってみたいです。
ちなみに、森山良子さんの父・森山久さんとはジャズを通じた友人で
ティーブさんの奥様が森山さんの奥様の姉なので親戚ということみたいです
ムッシュは叔父の森山久の影響でトランペットをはじめたそう。
14歳当時の写真が映像に出てきましたが、それは来日中の
ルイ・アームストロングとのツーショット!でした。
生まれた時からまわりには音楽が溢れていて貴重な体験の数々が
ムッシュを作り上げてきた、と言えそうです。
20歳前後で当時流行りのウエスタン歌手としてデビューするもヒットはなし。
1960〜61年・テイチク時代の「かまやつヒロシ」名義音源もCDで出てました。
俺の歌を聞いてくれ
本人曰く、まわりのウエスタン歌手が歌謡曲に転向するなか
(例えば、同時期に活躍の守屋浩「僕は泣いちっち」とか)、
自分はそれがイヤだったのでハワイに逃亡した、とのこと。
これはドメスティックなものより洋楽のビート/グルーヴを
初期からずっと指向していたムッシュの「イズム」なのでしょうね。
半年間のハワイ生活の間も現地では歌手活動をしていたそうで
その写真も出てきました。
帰国後に参加したのがザ・スパイダース。スパイダース自体は1961年から
活動していたようですが、ムッシュの参加は1963年。
本人のインタビュー映像では、1963年終わり頃に友人が輸入したレコードで
初めて「MEET THE BEATLES」を聴いてぶっ飛んだ、と語られています。
てことは、アメリカ輸入のUS盤だったということですな。
この番組では、ムッシュが個人で所有していた自分が出演した番組の
ビデオテープアーカイブから貴重な映像の数々を初公開していましたが、
スパイダースの映像ではかなり初期の白黒テレビ映像がスゴかった。
曲は「ジョニー・B・グッド」、同録ではないようでしたが
音はガレージ度の高い激しいR&Rで、これぞジャパニーズフリークビート!
映像が乱れまくってましたがカットせずフルコーラス放送したのはエラい。
スパイダースについては当時のフィリップス・レコードのディレクター(?)
の方のインタビューもあり証言されていました。
曰く「日本のロックの最初のアルバムは『ザ・スパイダース・アルバムNo.1』であり
はっぴいえんどではない」と言ってましたね。
1966年リリースで全曲オリジナルのバンドサウンド、確かに仰る通りだと思います。
ザ・スパイダース アルバムNO.1
はっぴいえんどの功績は凄過ぎるけど、「日本語ロックの」という条件を
つけたとしても、その前にはスパイダースもいたしジャックスもいたわけで。
何でもはっぴいえんどを起源とする言説には確かに違和感ありますね。。
オリジナル曲を作り始めたいきさつについてのインタビューもあり、
「本当はずっとカバー曲をやっていたかった」というのもムッシュらしかった。
FENを聴いて数小節だけパクって作ってた、というのも今では微笑ましい話。
そうやって日本のロックは創世されていった、ということです。
キンクスという単語が何度も出ていたのも印象的。相当好きなんですね。
昔に買った、大阪のレコードショップ「フォーエバーレコード」発行の雑誌
「フォーエバーマガジン」に掲載のムッシュのインタビューでは、
英国勢のサウンドに衝撃を受けた話やキンクスのギター音を研究する話
(トレブル下げるとか)について言及していたような気がします。
また今度引っぱり出して再確認してみよう。
番組では初期ソロ時代についてはあまり情報がありませんでした。
面白いアルバムを発表いるだけに少し残念。
そして、次世代の動きとなった吉田拓郎や岡林信康らフォークに反応した時の
心境についても語られていました。
当時、ユーミンは節操がないと感じたらしいですが(番組HPに記載あり)
ムッシュの音楽的な嗅覚は的確に時代性を掴んでいたということでしょう。
「カッコいいこと」を基準に音楽スタイルを柔軟に飲み込んでいくムッシュ、
その「軽さ」が触媒となって日本のポップ音楽シーンは豊かになったのだろうし
存在の重要さ=評価は今後ますます高まることでしょう。
70年代の映像のハイライトは、南沙織をあいだに置いて吉田拓郎と「シンシア」
を歌った競演シーンと、ユーミン作「中央フリーウェイ」のムッシュ・バージョン。
特に「中央フリーウェイ」は車好きなムッシュのためにユーミンが作った
という逸話は今回はじめて知り、ちょっとビックリでした(有名な話なのかな?)。
作者の若きユーミンがデュエットし細野さん以下ティンパンアレーがバックをつけた
ムッシュが歌う「中央フリーウェイ」、これは語り継がれるべき名演でしたね。
「我が良き友よ」への反骨精神で作ったB面曲「ゴロワース」への思い入れ、
90年代のレアグルーヴとしての再評価、近年のKenKenとのバンドなど
急ぎ足で亡くなるまでのエピソードは続きました。
GS時代の深堀りとかソロでの多重録音の話とか内田裕也との交流とか
再結成ウォッカコリンズの話とか、まだまだ知りたい話はたくさんあります。
この番組をベースに、さらに映像やエピソードを大量追加・再編集して
ぜひぜひ2時間半くらいの映画として残して欲しいなぁ。
日本ロック史にとってそれくらい意義深いドキュメンタリーでした♪
レアな映像満載であらためてムッシュの偉大な功績を再確認できる
貴重なドキュメンタリー音楽番組でした。
ナビゲーターはムッシュに大きな影響を受けたというユーミン。
ナレーションは従兄弟の森山良子が担当。
まずはムッシュの生い立ちから番組ははじまる。
父はロス出身の日系二世、ジャズギター奏者&ジャズ歌手のティーブ釜萢。
70年代にはキングレコードに1枚アルバムを残しています。
Sing a Simple Melody
ティーブ釜萢さんの戦前〜戦後の活動を見ていくと、
戦後日本のポピュラー音楽史を知る上で面白い事実が多々ありますが
それはまた何かの機会に掘ってみたいです。
ちなみに、森山良子さんの父・森山久さんとはジャズを通じた友人で
ティーブさんの奥様が森山さんの奥様の姉なので親戚ということみたいです
ムッシュは叔父の森山久の影響でトランペットをはじめたそう。
14歳当時の写真が映像に出てきましたが、それは来日中の
ルイ・アームストロングとのツーショット!でした。
生まれた時からまわりには音楽が溢れていて貴重な体験の数々が
ムッシュを作り上げてきた、と言えそうです。
20歳前後で当時流行りのウエスタン歌手としてデビューするもヒットはなし。
1960〜61年・テイチク時代の「かまやつヒロシ」名義音源もCDで出てました。
俺の歌を聞いてくれ
本人曰く、まわりのウエスタン歌手が歌謡曲に転向するなか
(例えば、同時期に活躍の守屋浩「僕は泣いちっち」とか)、
自分はそれがイヤだったのでハワイに逃亡した、とのこと。
これはドメスティックなものより洋楽のビート/グルーヴを
初期からずっと指向していたムッシュの「イズム」なのでしょうね。
半年間のハワイ生活の間も現地では歌手活動をしていたそうで
その写真も出てきました。
帰国後に参加したのがザ・スパイダース。スパイダース自体は1961年から
活動していたようですが、ムッシュの参加は1963年。
本人のインタビュー映像では、1963年終わり頃に友人が輸入したレコードで
初めて「MEET THE BEATLES」を聴いてぶっ飛んだ、と語られています。
てことは、アメリカ輸入のUS盤だったということですな。
この番組では、ムッシュが個人で所有していた自分が出演した番組の
ビデオテープアーカイブから貴重な映像の数々を初公開していましたが、
スパイダースの映像ではかなり初期の白黒テレビ映像がスゴかった。
曲は「ジョニー・B・グッド」、同録ではないようでしたが
音はガレージ度の高い激しいR&Rで、これぞジャパニーズフリークビート!
映像が乱れまくってましたがカットせずフルコーラス放送したのはエラい。
スパイダースについては当時のフィリップス・レコードのディレクター(?)
の方のインタビューもあり証言されていました。
曰く「日本のロックの最初のアルバムは『ザ・スパイダース・アルバムNo.1』であり
はっぴいえんどではない」と言ってましたね。
1966年リリースで全曲オリジナルのバンドサウンド、確かに仰る通りだと思います。
ザ・スパイダース アルバムNO.1
はっぴいえんどの功績は凄過ぎるけど、「日本語ロックの」という条件を
つけたとしても、その前にはスパイダースもいたしジャックスもいたわけで。
何でもはっぴいえんどを起源とする言説には確かに違和感ありますね。。
オリジナル曲を作り始めたいきさつについてのインタビューもあり、
「本当はずっとカバー曲をやっていたかった」というのもムッシュらしかった。
FENを聴いて数小節だけパクって作ってた、というのも今では微笑ましい話。
そうやって日本のロックは創世されていった、ということです。
キンクスという単語が何度も出ていたのも印象的。相当好きなんですね。
昔に買った、大阪のレコードショップ「フォーエバーレコード」発行の雑誌
「フォーエバーマガジン」に掲載のムッシュのインタビューでは、
英国勢のサウンドに衝撃を受けた話やキンクスのギター音を研究する話
(トレブル下げるとか)について言及していたような気がします。
また今度引っぱり出して再確認してみよう。
番組では初期ソロ時代についてはあまり情報がありませんでした。
面白いアルバムを発表いるだけに少し残念。
そして、次世代の動きとなった吉田拓郎や岡林信康らフォークに反応した時の
心境についても語られていました。
当時、ユーミンは節操がないと感じたらしいですが(番組HPに記載あり)
ムッシュの音楽的な嗅覚は的確に時代性を掴んでいたということでしょう。
「カッコいいこと」を基準に音楽スタイルを柔軟に飲み込んでいくムッシュ、
その「軽さ」が触媒となって日本のポップ音楽シーンは豊かになったのだろうし
存在の重要さ=評価は今後ますます高まることでしょう。
70年代の映像のハイライトは、南沙織をあいだに置いて吉田拓郎と「シンシア」
を歌った競演シーンと、ユーミン作「中央フリーウェイ」のムッシュ・バージョン。
特に「中央フリーウェイ」は車好きなムッシュのためにユーミンが作った
という逸話は今回はじめて知り、ちょっとビックリでした(有名な話なのかな?)。
作者の若きユーミンがデュエットし細野さん以下ティンパンアレーがバックをつけた
ムッシュが歌う「中央フリーウェイ」、これは語り継がれるべき名演でしたね。
「我が良き友よ」への反骨精神で作ったB面曲「ゴロワース」への思い入れ、
90年代のレアグルーヴとしての再評価、近年のKenKenとのバンドなど
急ぎ足で亡くなるまでのエピソードは続きました。
GS時代の深堀りとかソロでの多重録音の話とか内田裕也との交流とか
再結成ウォッカコリンズの話とか、まだまだ知りたい話はたくさんあります。
この番組をベースに、さらに映像やエピソードを大量追加・再編集して
ぜひぜひ2時間半くらいの映画として残して欲しいなぁ。
日本ロック史にとってそれくらい意義深いドキュメンタリーでした♪